Red Garland

William "Red" Garlandは1923年5月13日にTexas州Dallasに生まれた。音楽家の家庭ではなかったが、幼いころから音楽に興味をしてしていたという。Benny Goodmanのファンであった父の希望もあり、(本当はトランペットをしたかったらしいが)クラリネットとアルトサックスを始めた。同時にボクシングのトレーニングも行い、兵役後はウェルター級プロボクサーとして活躍した。音楽としては1940年にピアノに転向後はめきめきと上達し、手を傷つけたくなかったためにボクシングをやめた(最後の対戦相手がかつてともにトレーニングを積んだ仲間であり、仲間を傷つけたくないという理由で不戦敗となったことからボクサーをやめさせられたという説もある。ボクサー時代、若き日のSugar Ray Robinsonと腕を交わしたことがある。31戦30勝1敗という戦歴を残したという記載があるが、Sugar Ray Robinsonとの試合の結果については定かでない。)

第二次世界大戦後はRoy Eldridge、Coleman Hawkins、Charlie Parker、Lester Youngといったミュージシャンと活動した。Boston、New York、Philadelphiaを中心として活動しており、1940年後半になるとEddie Vinson(当時はJohn Coltraneも同じバンドにいた)のツアーに同行した。当時はAhmad Jamal、Walter Bishopの演奏に影響を受けていたという。

1955年にMiles Davisのバンドに入ってからはRed Garlandの名は知れるようになった。Miles Davisは大のボクシング好きで、Red Garlandのボクサー時代の話に大変感銘を受けたという。録音では、Miles Davisの”Workin’”、”Steamin’”、”Cookin’”、”Relaxin’”といったアルバムにも参加した。

Miles Davisバンド内で関係が悪くなり、Philly Joe Jonesと息が合わず、1958年に解雇された。後にMiles Davisの”Milestones”でピアニストとして参加しているが、その際にかつてCharlie ParkerのレコーディングにおいてMiles Davisがとったソロを引用しており、Miles Davisはそれが気に入っていなかったという。

1958年からは自らのトリオで活動しており、Pepper Adams、Nat Adderley、Ray Barretto, Kenny Burrell、Eddie "Lockjaw" Davis、Jimmy Heath、Harold Land、Philly Joe Jones、Blue Mitchell、Ira Sullivan、 Leroy Vinnegarといったミュージシャンを交えて録音している。

1960年代になるとプロとしての活動をやめるが、当時ロックンロールなど周囲の新しい音楽についていけなかったという説がある。その後は1970年にTexasのジャズシーンで復帰を果たしたものの、1971年に2枚分のレコーディングを行った以外は故郷Dallasで細々とした活動を行っていたという。

1977年にRiversideの元オーナーOrrin Keepnewsの勧めがあり、カムバックを果たした。Philly Joe JonesとRon Carterとのトリオでレコーディング、その他多数のレコーディングを行った。1984年4月23日心疾患のため亡くなった。

参考文献:Wikipedia (http://en.wikipedia.org/wiki/Red_Garland),

モダン・ジャズの世界 (http://www001.upp.so-net.ne.jp/gako-oku/Jidai_2.htm)


groovy

CD

1,C jam blues 2,gone again
3,will you still be mine 4,willow weep for me
5,what can I say dear 6,hey now

piano : red garland / bass : paul chambers /drums : art taylor

recorded December 14, 1956 (4,5), May 24 (6) and August 9, 1957 (1,2,3)

 

サイドメン作

milestones / miles davis

sugan / phil woods