Cedar Walton

Ceder Anthony Walton, Juniorは1934年1月17日に生まれた。Texas州Dallasで育ち、最初にピアノを教わったのはコンサート・ピアニストを志している母親か らだった。母にダラス周辺へジャズ演奏を聴きに連れて行ってもらい、Nat King Cole、Errol Garner、Mary Lou Williams、Earl Hines、Hank Jones、Oscar Peterson、Lester Young、Dizzy Gillespieといったミュージシャンの演奏に触れることとなった。本人は特に影響を受けたピアニストとしてNat King Cole、Bud Powell、Thelonious Monk、Art Tatumを挙げている。そして早い時期からこれらのピアニストの模倣を始めたという。
10代の頃、家族の休暇中に皆でDenver大学を訪れた際、寮が男女共同である事に魅了され、Denver大学に作曲専攻で通う事になった。しかし地元 の公立学校で講師をする為の音楽教育専攻に切り替えるよう勧められる。様々な楽器を演奏しアレンジする事を学ぶことができたため、後からすると非常に有益 であった。
Denver周辺のセッションで知り合ったJohn Coltrane、Charlie Parker、Richie PowellらにNew Yorkに来るよう誘われ、1955年、学校を辞めて、友人と共にNew Yorkに移る事を決めた。Cedar Waltonはすぐに当時のBirdlandの経営者であったJohnny Garryに実力を認められ、Garryは月曜の夜に、これから有名になろうとしているプレイヤーとWaltonを共演させていたという。
地位を確立したものの徴兵され、ドイツに配置された。軍隊にいる間、Leo Wright、Don Ellis、Eddie Harrisらと共演した。除隊と同時にピアニストの空きを見つけてKenny Dorham、J.J. Johnsonのサイドマンとして活動し、またBenny Golson、Art Farmer率いるJazztetに加わった。1958年から1961年までこのグループに在籍した。1959年4月、ピアノソロは無かったものの、 John Coltraneと共に"Giant Steps"の別テイクを録音した。
1960年代前半の3年間(Freddie Hubbardと同じ期間)Art Blakey's Jazz Messengersにピアニスト兼アレンジャーとして加わった。そこでWayne Shorter、Freddie Hubbardと共演する事になった。ここで"Ugetsu"や"Mosaic"といった彼のオリジナル曲の中で編曲に於ける優れたセンスを示した。 1964年にMessengersを去り、1960年代後半までPrestige Recordsのハウスリズムセクションを担当した。ここで自身の録音をリリースし、加えてSonny Criss、Pat Martino、Eric Kloss、Charles McPhersonらとレコーディングを行った。1年間Abbey Lincolnの伴奏者として雇われ、1966年から1968年の間、Lee Morganとレコーディングを行った。1970年代半ば、ファンクグループMobiusのリーダーとなる。
1974年、自己のバンドEastern Rebellionを結成。80年代から今日まで活動を続けている。そして"Firm Roots", "Bolivia", "Cedar's Blues"を含む作品の多くはジャズスタンダードとして演奏されている。"Bolivia"はおそらく彼の一番有名な作品である、一方最も古い作品の一 つである"Fantasy In D"は、1963年、Art Blakey Jazz Messengersの"Ugetsu"というタイトルで録音されている。
2010年1月、Jazz Master部門においてNEA(National Endowment for the Arts=国立芸術基金)の一員となった。”生涯を通じて名演を確実に保てる能力と彼の作品、アーティストの忍耐力の表明に対しとても名誉である”として 公認された。